SUMMER HAS GONE

 うだるような暑さだ。直射日光が全身を突き刺していた。さえぎるものといえば帽子くらいで、真夏の太陽に対しては無意味ともいえた。半袖のシャツが汗で肌に張りついていた。汗は頬もつたっていった。風はない。空気が熱を持ってよどんでいた。遠くの景色がゆらゆらとうごめいているような気がした。午後になるとさらに気温も湿度も上がります、熱中症にご注意ください、今朝見た天気予報でお天気お姉さんが言っていた。朝の時点でかなり暑くて憂鬱な気分になった。アイス、かき氷、プール、できる限り涼し気なものを思い浮かべて、暑さにのまれないように抵抗した。
 寮へ帰ってシャワーを浴びたかった。汗でびしょ濡れの服を今すぐ脱ぎ捨ててしまいたかった。身体は水分を失ってからからだった。この分では肝心の寮へたどり着けるかどうかすらあやしかった。ひと休みするのは仕方がないと自動販売機で水を買った。陽射しから逃げるように木陰へ身をひそめた。ペットボトルの半分の水を一口で飲み干して、身体が冷えていくのを待った。首にあてると冷たくて気持ちいいよ、あの子がそう言っていたのを、ふいに思い出した。

 彼女は小学六年生の春に同じクラスへ転入してきた。あと一年しかないこの時期に大変そうだなあと、望は思った。親が転勤族で何度目かの転校らしい。初めて教室へ入ってくるときは少し緊張していたようだったが、自己紹介では前を見てはきはきと、それでいて淡々としていた。要領を得ていて、同世代の子よりも自己紹介する機会が多かったんだろうなという印象だった。クラスの男子も女子も、転入生に興味津々だった。
 教室へ入ってきたときの彼女を見て、夏が来たと望は思った。きれいに毛先のそろえられたショートボブがよく似合っていた。小さな顔は端正に整っていた。色白の素肌にほんのり染まったピンクの頬がまぶしかった。手足はすらりと長く、他の同級生よりも少し腰の位置が高かった。身につけているものも洗練されていて、かといって気取っている風でもなく、年相応のおしゃれに見えた。女子はそういうのに敏感だ。ホームルームが終わった途端に彼女の周りには人垣ができあがった。そのトップスはどこのブランド? このキーホルダーはどこで見つけたの? 普段はどういうお店に行ってる? ねえねえ。質問攻めにあっても彼女は嫌な顔をせず、丁寧にひとつひとつ答えていった。質問攻めも転入生の恒例行事なんだろうなと望は思った。女子の勢いに圧されて、男子は彼女に近づくこともできなかった。人垣がなかったとしても、彼女の雰囲気たっぷりな存在感に圧倒されて遠くから見ることしかできなかったが。

 進級の興奮もおさまったころ、梅雨に入った。毎日雨だった。雨の憂鬱を吹き飛ばそうという意味も込めて、席替えがおこなわれた。番号の書かれたくじを引いて、該当する座席へ移動する。望は窓際二列目、一番後ろの席だった。もうひとつ窓際だったらよかったけれど、贅沢は言うまい。そう思って、窓際一番後ろの席に誰が来るかを待った。彼女だった。
 隣、五十嵐くんなんだ、よろしくね。

 休み時間ごとに彼女の周りには人が集まった。初日のような人垣ではないが、常に代わるがわるの人間がついて離れなかった。成績優秀だから勉強の相談はもちろんのこと、聞き上手で話し上手な彼女に日々の愚痴を吐きにくるのが多かった。家でのことや恋の悩み。望は隣で聞き耳を立てていて、小学生はそういうことで悩むのかと思ったこともあった。自分にはさして悩みがないなとも思った。
 彼女が席にいないこともあった。たいていは誰かに連れ出されていて、教室内ではできない繊細な話をしているようだった。女子ならやっぱり恋の悩みで、男子なら、愛の告白。具体的に聞かなくても、周りの様子でなんとなくわかった。そうか、モテるんだ。望は思った。

 彼女の相談室を聞いていて、気づいたことがあった。同級生がどういう事情を抱えているのか大なり小なりわかってはきたが、中心にいる彼女のことは、季節が変わってもなにも知らないままだった。
 そのことに気づいてから、望は彼女の一挙一動に注目するようになった。授業中の挙手はあまりしないが指名されるとすぐに答えられること、運動は少し苦手で特に球技がだめなこと、だけど走るのは得意なこと、ノートの端に落書きをしていること。給食は毎日残さず食べるけど、一度だけグリンピースをよけていたこと。グラウンドをよく眺めていること。彼女の指先が、視線の先が、気になって仕方がなかった。

 そろそろ梅雨も明けようかというころ、久し振りに晴れた日があった。その日は朝から快晴で、熱帯夜になるだろうと予報が出ていた。
 「いつもなにを見てるの?」
 望は昼休みに隣から声をかけられた。彼女の声だった。梅雨の晴れ間を楽しもうと、クラスメイトたちはみんな教室の外へ出ていったあとだった。静けさが教室全体を覆っていた。
 彼女と事務的な話をすることはこれまでもあった。消しゴムを落として拾ったり拾われたりしたとき、答案用紙を交換して答え合わせをしたとき。隣、よろしくね。それくらい。今日日直だからだるいよ、宿題写させて、そういう会話はなかった。だから、話しかけられておどろいた。
 「いつもって………なにをって?」
 望は焦って馬鹿丸出しの返事をしてしまった。
 「いつも見てるじゃない、わたしのこと」
 うろたえた。気づかれているとは思わなかった。全然そういう素振りを見せなかったから。話しかけられておどろいたのにも加えて、うろたえた。
 「別に怒ってるんじゃないよ。なんでなのかなあって」
 彼女の唇はきれいなコーラルピンクをしていた。放たれる声が、自分だけに向けられていた。
 「五十嵐くんってあんまり周りに関心なさそうだから、気になったの」
 望はどう返事したらいいものか迷って、黙った。

 「ねえ、屋上に行きたい」
 彼女はそう言って立ち上がった。その目は前を見据えて強い意思を持っていた。この学校に来たときにみんなが案内してくれたけど、屋上は行かなかったの、そう付け加えた。窓から射し込む太陽の光がまぶしくて、彼女の表情はよく見えなかった。望は彼女の手をとって、教室の外へ連れ出した。
 廊下の空気はひんやりとして冷たかった。誰もいなかった。静まりかえった廊下に、校庭で遊ぶにぎやかな声が響いていた。昼休みの校舎にはこんなにも人がいないものなのか、望にはわからなかった。この時間の望はいつも教室か図書室で本を読んだり、まどろんだりしていた。たまには一緒にドッジボールでもやろうと誘ってくれるクラスメイトもいたが、望も球技が苦手だった。

 誰もいなかった。不思議だったが、さして変だとも思わなかった。

 屋上へ続く階段を昇った。造りとしては同じなのに、屋上への階段は他と違って特別に見える。おおいなる秘密をのぞきにいくような大胆な冒険家の気分とも、心の皮膚が剥がれ落ちたような繊細な気分ともいえた。昇りきってもまた教室へ帰れるのだろうか。帰れなくなったら、いなくなった自分のかけらを他の誰かに拾い集められてしまうのだろうか。そのときの自分はどうなっているのだろうか。屋上へ続く階段は、望の不安を煽った。彼女の手は温かかった。

 屋上から見える空は全部青かった。単純な青一色の爽快な空だった。直射日光が突き刺すようにまぶしくて、暑かった。空気は湿っていて生ぬるかった。さえぎるものといえば給水タンクの影くらいで、真夏の太陽に対してふたりはあまりにも無防備だった。
 「日差しって痛いのね」
 あっという間に全身から汗が噴き出してきた。ふたりはどちらからともなく、この屋上唯一の日影で腰をおろした。
 ほどなくして、彼女は口をひらいた。

 わたしね、夢とか目標とか、ないの。毎年春に書かされるでしょう。どこの学校もそうなのよ。教室に全員分貼り出すから、中途半端な時期に転入しても落ち着いたころに書かされるの。熱心なところは学期ごとに要求してくるわ。お正月には書き初めもするでしょう。新学期が憂鬱で仕方がないったら。成績のことを書いておけば強く突っ込まれないことに気づいてから、毎回同じことを書いてるの。同じ学校にはあまり長くいないからかぶっても気づかれないし。口うるさい教師は子供が自分で決めた自分の目標にケチつけて朱を入れるのよ。達成できなかったら学期末に怒るの。意味わかんない。ちっちゃいころはケーキ屋さんになりたいとかでうっとうしいほど褒められたのにね。

 彼女は悲しげな顔をした。
 望はそういうことを考えたことがなかった。目標を書けと言われたら書いたし、達成できなくて怒られても別に気にしなかった。望にもはっきりとした目標はなかったが、いつかできるだろうとのんきにしていた。望のそんな性格を理解した上で、教師はほどよく放っているのかもしれない。彼女は優秀だから、教師も期待をかけたくなるのだろうと思った。

 屋上からはずっと向こうに海が見える。
 彼女はどれほどの海を見てきたのだろう。もっと海が近い街、もっと海が遠い街、海なんて見えなかった街、望が行ったことのない街。そこで望が知らない海を、街をいくつも見てきたはずだった。彼女の脳裏に焼きついているのはどんな街で、どんな海なんだろう。
 望は、ポケットに自転車の鍵があることをふと思い出した。

 海へ続く道をふたり乗りの自転車で走っていった。夏の太陽が真上にいた。日差しは痛い、さっき彼女が言っていた。望もそう思った。汗で服がまとわりつくほど暑かったが、気分はさわやかだった。望の背中には同じくらいの体温があった。この夏を共有できていることが嬉しかった。

 一ヶ月が経った。その間に変わったことといえば、彼女との会話がほんの少しだけ増えたこと、梅雨が明けてすぐ夏休みに入ったことだった。それと、望の心境にも変化があった。
 夏休み中、職員室に用事があって学校に来ていた望は、同じく学校に来ていた彼女と遭遇した。次に会うのは夏休みが明けてからだと思っていた望は、いい機会だと思って一大決心を伝えることにした。
 彼女の用事が終わるのを待って、ふたりは一緒に帰った。
 「四ツ星に行くことになった」
 夏の暑い帰り道をふたりで歩いた。自転車は置いてきた。なんとなく、横に並んで話したかった。
 「四ツ星って、あの四ツ星学園? へえ、おもしろいことするのね」
 彼女に特別驚いた様子はなかった。興味はあるようで、目線を望のほうへ向けた。
 「務まると思う?」
 望は不安だった。自分で決めたこととはいえ、あまり普通の道ではない。芸事で一流になるのは並大抵のことではないのをわかっていて、飛び込むのだった。そのための勇気が欲しかった。
 「わからない。でも」
 彼女はひと呼吸置いてから言った。
 「五十嵐くんなら五十嵐くんにしかできないアイドルになれると思う」
 それから、コーラルピンクの唇に微笑みをたたえて言った。
 「アイドルのことはよく知らないけど、おもしろいことをするのは確かね。わたしがファン第一号よ」

 夏休み明けの学校に彼女は来なかった。いつも決められたように始業時間の十分前に姿を見せる彼女が、始業のチャイムが鳴っても現れなかった。家族の急な転勤が決まって、夏休み中に引っ越したとのことだった。せっかくよくしてくれたのに挨拶もなくてごめんなさい、短い間だったけどみんなと過ごせて楽しかったです、ありがとう。彼女はクラスへ向けた手紙を託していたらしく、担任教師の声で読み上げられた。ざわつく教室で望は、からっぽの隣の席を見ていた。


 五十嵐望は四ツ星学園男子部の中学三年生だ。人気アイドルユニットであるM4のメンバーで、ファンからは王子様キャラとして親しまれている。さわやかな印象とは裏腹に、公開オーディションで見せた勝負への熱意が話題になっていた。
 M4のイベントは毎回満員の客席で埋まる。アイドル養成学校のトップアイドルとして活躍する彼らのことを、ひと目でも見たいファンが全国にいるのだった。ステージに立つ彼らは、いつも大勢の観客の熱狂に迎えられていた。
 熱狂の渦の中心にいる望は、ふとした瞬間に不思議な感覚になることがあった。歌とダンスには体力が必要だった。それを長時間、人前で、常に最高のパフォーマンスとして見せるのは過酷なものだった。毎日のアイカツを持ってしてもそれは変わらなかった。しかし苦痛ではないのだった。絶えず向上心を持って挑戦することは充実感をもたらした。過酷さと充実感、その連続のなかで、自分が自分でないような、それでいて自分以外の何者でもないような、境界線のない世界でふわふわとただよっている感覚になるのだった。ファンからの熱に負けてるんじゃない? こういう話をすると、同じM4の一員である結城すばるは決まってそう言う。そうかもしれなかった。この感覚になるとき、望には思い出すひとがいた。
 ファン第一号だと言っていた彼女だった。あの夏休み以来、一度も会っていなかった。連絡先の交換もしていなかった。担任が読み上げた手紙以降の動向は知らなかった。それはクラスメイトもそうだった。四ヶ月だけの聡明な同級生は確かに存在したが、存在感だけを残して、あとはきれいにいなくなってしまった。
 彼女からファン第一号と宣言されたとき、望は嬉しかった。自分のファンということは、自分が自分であることを認められたなによりの証左だと思った。それと同時に、残念にも思った。アイドルになる前から、アイドルとそのファンという線引きをされてしまったからだった。アイドルとファンという関係は特別なものだ。アイドルはたくさんのファンに両想いを提供するが、ファンからアイドルにできることは応援に限られている。両想いのかたちをとっていても、互いに終わらない片想いのようなものである。屈託のない平行線だった。失恋だったのだろうか。望にはよくわからなかった。嬉しかったのも残念に思ったのも事実だった。一見相反する感情が一度に出てくることもあるのだなと、望は思った。
 あれは失恋だったのだろうか。形にもなっていないのに失うもなにもあるだろうか。あれは、恋だったんだろうか。
 望には、よくわからなかった。

 「望くん、大丈夫?」
 顔を覗き込ませてきたのは、香澄朝陽だった。かたわらには吉良かなたもいた。彼らもM4の仲間だ。M4のライブツアーが無事終わって、その成功を祝した打ち上げ会場に、望はいた。
 「お疲れ、望」
 かなたが差し出してきたミネラルウォーターを望は受け取った。
 「すばるくんすごい盛り上がってるよ。ほら」
 朝陽が指差した方向にはカラオケシステムがあった。その前で歌っているのはすばるだった。ツアーを終えても歌い足りないのか、マイクを独占していた。
 「本当だ、大熱唱だね」
 望は笑った。
 「酔っ払ってるみたいだよね」
 「俺の分析によると、すばるはオレンジジュースで酔っ払う」
 「未成年なのにー」
 すばるの歌をBGMに朝陽とかなたのかけあいを聞きながら、望はふと隣の空いた席を見た。
 彼女が今どこにいるのか、なにをしているのか、まったく知らない。知りたいような気がしたが、知らないままでいい気もした。相変わらずクラスの人気者なのだろうなと想像した。中学生になると女子はいっそう垢抜けるから、もともと大人びていた彼女はさらにきれいになっていることだろうと思った。もしかしたら、学校中でアイドル的な人気を博しているかもしれない。あのとき屋上で文句を言っていたように、まだうんざりしているかもしれない。学校に、将来に。全部憶測にすぎないし根拠もないけれど、望のアイドル活動をずっと見守っていてくれていることには自信があった。彼女の言葉には嘘がなかった。ファン第一号の評価はきっと辛辣だ。退屈を持てあましていたひとだから。

 誰かの退屈しのぎになれたらいいと願いながら、望はからっぽの空席をアイドル活動で埋めていくのだった。


(20170831)

アイカツスターズ!から、五十嵐望さんの心に透明感ガールがいたらいいなと思って