海の見える街

 散歩へ行くと足が向くのは決まって海だ。
 家から海まで15分、そのとき気に入っている音楽を聴きながら、ただ歩く。

 途中で黒猫を見かけた。近づいても動こうとはしない。
 彼(または彼女)と目をあわせたまま、吸い寄せられるように触れた。

 自宅から見える海は雑多だ。
 晴れた日はヨットが浮かび、水面は燦然と輝く。
 ときどき訪れている大きな船はきっと近くの港へ行く。行ったあとか。
 夜は水平線に沿って海の向こうの都会がきらめく。
 昔の人は、海の向こうへなにを想っていたのだろう。

 散歩の目的は海へ行くことだ。
 海へ行って泳ぐでもなく、写真を撮るでもなく、ただ眺める。

 持っていた一枚の新聞紙を砂浜に敷いてそこに座った。
 冬は風が強く、冷たい。2時間居座った翌日はさすがに風邪を引いた。

 音楽を止める。イヤホンはしたままにしておく。
 海の音、砂利がこすれる音、誰かの声。ここにいるあいだの現実は夢のようだ。

 こころに漠然とした灰色のかたまりが浮かんでいる。
 それはつかめない。こちらに寄せることも、向こう側に追いやることもできない。あくまで漠然とした、

 不意にイヤホンが取れた。黒猫が擦り寄ってきた。彼(または彼女)と、目があう。
 きれいな目をしていた。現実になじんでいく大人たちとは違っていた。
 猫は嫌いではなかった。さっき初めて出会ったところからついてきたのだろうか。
 触れた。触れて、なるべく優しく撫でた。彼(または彼女)はなにも思っていないように見えた。

 彼(または彼女)を拾い上げて、イヤホンをしまった。名前をひとしきり考えて、ネコと命名した。


(20080214)